欧州海上安全レポート

25-09 記事
25-09-3. 国際規制動向におけるEUの戦略

国際海事機関(IMO)は2023年7月3日~7日にMEPC80(第80回海洋環境保護委員会)を開催し、「2050年までに国際海運の温室効果ガス排出をネットゼロに達成する」という目標を含む新たなGHG削減戦略(2023 IMO GHG削減戦略)を採択しました[1]

その実現に向けて、IMOは2025年4月のMEPC83(第83回海洋環境保護委員会)において、船舶燃料のGHG強度基準と国際的なカーボンプライシング機制を含む「IMOネットゼロ・フレームワーク」の草案テキストを最終化しました[2]

しかし、2025年10月14日~17日のMEPC臨時会合(MEPC/ES.2)において、このネットゼロ枠組みの正式採択は1年間延期されることが決定されました[3]。延期の理由としては、IMOが規制する2028年以降のGHG基準を満たす低炭素・再生可能燃料が、世界的に商業規模で十分に供給できる体制に達していないことから、規制の現実的な実装可能性に対する懸念が生じたことが挙げられます[4]。加えて、米国やサウジアラビアなど主要国の強い反対もありました[5]

こうした国際規制の動向の中で、EUは2025年11月5日、独自の戦略として「持続可能な輸送投資計画(STIP:Sustainable Transport Investment Plan)」を採択しました。

 

STIPの戦略的意義

本計画は、国際的なIMO規制の動向を踏まえつつ、EUが域内レベルで海運・航空分野における持続可能な燃料への転換を加速させるための投資戦略です。特に、燃料供給不足という国際的な課題に対し、EU域内で低炭素・再生可能燃料の生産能力を早急に拡大することで、持続可能な輸送燃料の安定供給を確保することを狙いとしています[6]

STIPは、海運・航空分野における持続可能な燃料の導入拡大に伴う主要な課題、特に燃料供給不足、高コスト、多額の投資ニーズについて整理しています。

 

持続可能な燃料の域内生産拡大の必要性

持続可能な燃料の供給面について、STIPは、新たな依存関係を生まないよう化石燃料供給国への依存から脱却することを重視し、そのためにEU域内で再生可能・低炭素燃料の生産能力を緊急に拡大する必要があると指摘しています。

さらにSTIPによれば、現時点では海運・航空いずれの分野でも、いわゆるe燃料(合成燃料)は商業規模で利用可能な段階には達していないとされています[7]。また、e燃料と従来型燃料の価格差が依然として非常に大きいことを指摘し、EU域内で40件以上のe燃料生産プロジェクトが計画段階にあるものの、現時点で最終投資判断(FID)に至った事例はないと説明しています[8]

 

  • 備考:e燃料(合成燃料)とは

e燃料は、再生可能エネルギー由来の電力で製造した水素とCO₂を化学合成して精製される液体燃料です。既存のガソリンスタンドやエンジンでもほぼそのまま使用可能な「ドロップイン燃料」であり、航空機や船舶の脱炭素化における有力な選択肢とされています[7]。一方で、現時点では製造コストが従来燃料より数倍と高く、大規模製造プロセスの技術開発も途上にあります。

 

投資ニーズ

STIPは、持続可能な燃料に対する多大な投資需要も明確にしています。航空と水上輸送を合計した場合、2035年までに約2,000万トンの再生可能・低炭素燃料(バイオ燃料13.2Mt、合成燃料6.8Mt)が必要になると見積もられています[9]。この要件を満たすには、2035年までに約1,000億ユーロの投資が必要とされています[10]

 

海運部門の対応策

解決策として、海運部門が自ら講じ得る措置も示されています。STIPは、水上輸送部門がさまざまな技術(風力補助推進を含む)と複数の持続可能な海運燃料(SMF)[16]を組み合わせて活用すべきだと提案しています。

短期的にはLNGなどの移行燃料が役割を果たす一方で、中長期的にはアンモニアや水素といったゼロエミッション燃料への転換が想定されています。ただし、これら燃料は現在技術開発・実証段階にあり[17]、商業的な導入に向けた取り組みが継続中です。

LNG燃料は、従来の舶用重質油と比較してCO₂やNOx、SOxの排出量が少なく、一定の環境効果を有します。しかし、LNGエンジンでは未燃焼メタンが大気中に排出される「メタンスリップ」が課題となっています[11]。メタンはCO₂と比較して非常に高い温室効果を持つため、メタンスリップはLNGの全体的な環境効果の一部を相殺する可能性があります。現在、メタン酸化触媒システムやエンジン改良によるメタンスリップ低減技術が開発・実証段階にあり[12]、より効果的な低減技術の確立と海上での実装を進めています。

 

  • 備考:SMF(持続可能な海運燃料)とは

SMFは、LNG、バイオ燃料、メタノール、アンモニア、水素、e-fuels(合成燃料)など、従来の重油に代わる複数の低炭素・再生可能燃料の総称です[16]。各燃料は技術成熟度や環境効果が異なっており、船舶の航路や規模によって使い分けられることが想定されています。特にアンモニアと水素は「ゼロエミッション燃料」と位置づけられています。アンモニア燃料船については2028年までに商業運航を実現し、水素燃料船については2030年までに実証運航を完了することを目標に、技術開発が進められています[17]

 

  • 備考:ETS収益とは】

ETS(EU排出量取引制度)により、加盟国はEU域内の企業から排出枠の販売収入を得ています。STIPは、各加盟国政府に対し、これらの収入を持続可能燃料関連プロジェクトへの投資に充てることを促し、EU全体として持続可能燃料への投資を拡充していくことを目指しています[13]

 

EUの資金メカニズム

EUの貢献については、イノベーション基金、ホライズン・ヨーロッパ、欧州投資銀行(EIB)、欧州イノベーション評議会といった主要な資金プログラムやスキームを活用します。2027年までにEU措置全体で少なくとも29億ユーロを動員する見込みであり[14]、その内訳として、InvestEUによる20億ユーロ、European Hydrogen Bankによる3億ユーロ、Horizon Europeによる約1億3,300万ユーロなどが含まれます[15]

ただしEUの資金だけでは課題に十分対応することは難しく、STIPは加盟国に対して、ETS収益の活用などを通じてEUレベルの資金と連動した追加投資を行うよう求めています。

 

(日本海難防止協会ロンドン事務所長 立石良介)

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