欧州海上安全レポート
欧州委員会(EC:European Commission)とEU外務・安全保障政策上級代表(EEAS:European External Action Serviceを通じて)は2025年11月19日、「軍事移動能力パッケージ2025(Military Mobility Package 2025)」を共同で採択しました[1]。
このパッケージは、戦略的な政策方針を示す共同コミュニケーション(法的拘束力なし)と、EU法として成立させるための軍事移動に関する規則提案等から構成されています[1][3]。
このうち、規則提案は通常の立法手続により欧州議会および加盟国(理事会)での審議・修正・採択を経て発効する見通しです。欧州委員会は、2025年12月初旬から加盟国との協議を開始する予定とされています[4]。
ECとEEASは、軍事移動能力を「EU域内外における軍事要員・物資・資産の迅速かつシームレスな移動(短期間・大規模な場合を含む)」と定義しており[2]、港湾や港湾施設、船舶運航を含む海上輸送インフラは、この能力を実現するうえで重要な役割を担うと位置付けています[3][7]。
当初は2018年の行動計画、2022年11月の行動計画2.0、2024年5月の軍事移動能力誓約といった非立法的な枠組みが中心でした[3][7]が、今回の提案はEUとして法的拘束力のある枠組みを構築することを目的としています。
これにより輸送インフラの整備強化が含まれることから、港湾・海運業界の事業者も、規制環境の変化や優先インフラへのアクセス面で一定の影響を受ける可能性があります。
EU域内軍事移動能力の現状
軍事移動能力は、EU加盟国が迅速かつ効果的に軍事対応を行うための基盤とされています。しかし現状では、EU27加盟国がそれぞれ異なる軍事輸送ルール、許可手続き、インフラ基準を保有しており、国境を越える軍事移動に数週間から場合によっては数カ月を要するケースも指摘されています[2][5]。
東欧地域では、老朽化した橋梁やトンネルが60トン級戦車に対応しておらず、滑走路長や重量制限も含め、重装備の輸送に物理的制約が存在します[2]。さらに、標準軌(1,435mm)と広軌(約1,520mm)といった線路幅の相違も輸送の障害となっていました。このためウクライナやバルト三国との接続路線については、標準軌への移行や二重軌道化などを通じて軍民双方の輸送を容易にする取組が段階的に検討・実施されています[3][5]。
2018年の第1次行動計画、2022年の行動計画2.0、2024年の軍事移動能力誓約も同様に政治的コミットメントにとどまっていたことから、EUとして法的拘束力を持つ共通ルールが必要との認識が強まりました[3][7]。
- 備考:段階的経緯
2017年~2021年:初期段階
軍事移動能力がEUの優先課題となり、2018年3月に第1次行動計画が採択されました。これを受け、EU輸送インフラ投資メカニズム(CEF: Connecting Europe Facility)の2021-2027期間では、約17億ユーロが軍事移動能力関連のデュアルユース輸送インフラ・プロジェクト(21加盟国・95案件)に配分されましたが、インフラ更新の規模に比べれば進展は限定的でした[1][7]。
2022年~2024年:改正検討段階
2022年2月のロシアのウクライナ侵攻を受け、2022年11月に行動計画2.0が採択され、インフラだけでなく規制・手続き面の課題にも重点が置かれるようになりました[3][8]。
これを踏まえ、EUの基本的な輸送インフラ規則である汎欧州輸送ネットワーク(TEN-T: Trans-European Transport Network)の改正作業が進められ、Regulation (EU) 2024/1679 が2024年6月13日に採択され、同年7月18日に発効しました[6]。
この改正により、軍事移動能力に関する要件(軸重・列車長・デュアルユース投資など)がTEN-T規則の中により明確な形で組み込まれ、軍事目的も念頭に置いたインフラ整備がEU法レベルで規定されることとなりました[6][10]。
2025年~2027年:制度化段階
2025年3月の防衛態勢ロードマップ2030により軍事移動能力が「優先能力」と位置付けられ、本パッケージは、非立法的枠組みから法的拘束力を伴う規則提案への転換点となりました[1][7]。2027年までに「軍事シェンゲン」を実現するとの政治目標の下、共通ルールとインフラ整備を組み合わせた制度設計が進められています[2][4]。
ECは2027年末までに、軍事移動能力に関する統一ルール体制を構築することを目指しています。この枠組みにより、軍事装備・兵員が統一された手続と様式に基づき迅速に国境を越えることが可能となることが期待され[2][3]、
- 平時:国境通過に必要な移動認可を 最大3営業日以内
- 有事・緊急時:最大6時間以内 に許可
また、約500カ所の「ボトルネック」地点(橋梁・トンネル・港湾・空港・鉄道結節点など)を特定し、4つの優先軍事移動能力回廊に沿って優先的に改善を進める方針です。港湾の軍事対応力強化を含むインフラ改修が実施される予定です[2][4]。
- インフラ整備に推定約1,000億ユーロ(€100bn)が必要と見積もられており、現行のCEF軍事移動枠約17億ユーロでは大幅に不足しています[2][4]。
- 次期長期予算(2028-2034)の中で、軍事移動能力向けに約170億ユーロ規模(10倍増)のCEF予算を確保する構想が示されており、その是非が今後の政治交渉の焦点となります[4][9]。
- 民間輸送とのバランス、NATO基準との整合性、危険物輸送ルールや労働時間規制の緩和余地、サイバー・物理・ハイブリッド脅威へのセキュリティ要求強化など、多角的な課題が残されています[2][4]。
海事事業者への影響
優先軍事回廊内の主要港湾では、軍事輸送に対する規制的障害が除去されることにより、軍事輸送需要が増加する可能性があります[2]。その結果、民間バースの利用状況や待機時間に影響が生じる懸念があります。
また、以下のような規制環境の変化が事業者に影響を与える可能性があります[2][3]。
- デュアルユース化に伴う港湾セキュリティ要件の強化
- 危険物・軍需物資輸送関連規制の改正
- 緊急時における軍事輸送優先メカニズムの導入
- 港湾アクセスや航路利用における優先順位の変化
さらに、約500カ所のインフラ改善工事期間中や危機時には、軍事目的への資源配分が優先される可能性があり、これに伴い民間運輸インフラの可用性に影響が生じる可能性があります[3]。持続可能燃料や低炭素水素・アンモニアなどが軍事需要として戦略的に扱われることで、供給面で民間需要との競合が強まる可能性も懸念されます[1][11]。事業者は、規則策定の進展状況を継続的に確認し、それに応じて適切に対応することが求められると言えます。
エネルギー供給の戦略的位置付け
ECは、軍事輸送に必要なエネルギー供給の安定性を重視しています。軍事移動能力の実現には継続的な燃料供給が不可欠であり、外部依存が高い場合には防衛活動が影響を受ける可能性があります[8][11]。
そのためECは、防衛ニーズを将来のエネルギー安全保障戦略や持続可能燃料戦略に統合し、燃料供給の安定化を図る方針です[1]。ReFuelEUなどの政策により、持続可能航空燃料(SAF)市場の形成と域内生産の拡大が進められていますが、EU内生産のみで全需要を賄うことは困難と見込まれており、輸入への依存が一定程度継続するとの見通しも示されています[11][12]。
こうした中で、防衛部門の燃料需要が戦略的に位置付けられることにより、民間航空・海運との間で低炭素燃料をめぐる競争が強まる可能性があり、民間セクターの調達環境にも影響が及ぶことが考えられます。
(日本海難防止協会ロンドン事務所長 立石良介)