欧州海上安全レポート

25-05記事
No.25-05-3. 「黒海安全保障ハブ」の設置

欧州委員会は、2025年5月に発表したEU「黒海戦略」において、黒海地域のインフラ保護、監視、海洋安全保障の強化を目的とした「黒海安全保障ハブ」の設置を提案しました。これを受けて、9月1日にはルーマニア大統領が、このハブを自国に設置することを正式に提案しました。

 

このハブは、黒海における海洋状況認識(MSA)と情報共有の強化、宇宙から海底までのリアルタイム監視、潜在的脅威や悪意ある活動に対する早期警告などを担う中核拠点と位置付けられています。具体的には、海底ケーブル、沖合施設、ルーマニアおよびブルガリア沿岸のガス・風力エネルギー関連事業といった重要海洋インフラを、水中センサーや無人船舶、空中・海上・水中の監視ドローンなど、既存および新たな技術を活用して監視する構想です。

また、監視・警告機能だけでなく、発生した脅威に対する実際の対応においても、同ハブは重要な役割を果たすと想定されています。各国の海上保安機関間の連携を強化するために、地中海海上保安機関フォーラム(Mediterranean Coast Guard Functions Forum, MCGFF ※1)をモデルとした、黒海版の多国間協力体制の構築が検討されています。

※1 MCGFFは、2009年に設立され、地中海沿岸24か国が参加する実務協力フォーラムです。海難救助における共同対応、薬物や人身売買に関する情報共有、海洋汚染や違法漁業に対する連携対応など、幅広い分野で日常的な多国間協力を行ってきました。24時間体制の情報共有システム、定期的な訓練・演習、法執行機関との協力体制など、実績ある仕組みを備えており、15年以上にわたり安定的に運営されています。

黒海地域では、このMCGFFの成功モデルを活用することで、ロシア・ウクライナ情勢下においても継続可能な協力体制の構築を目指しています。また、NATO加盟国と非加盟国の橋渡し的な機能を担うことも期待されています。

ルーマニアの報道によれば、9月15日、ルーマニア出身の欧州議会議員 ※2 Virgil Popescu氏を含む複数の議員が、黒海安全保障ハブの設置候補地として、コンスタンツァ市 ※3を支持する旨を記した書簡を欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長に提出しました。ただし、このようなEU機関の設立には、欧州理事会による正式な決定が必要であり、今後の政治的調整の行方が注目されます。

※2  欧州議会議員は、各加盟国で5年ごとに直接選挙で選出され、EU法の制定や予算承認において重要な役割を担っています。今回の書簡は、9月1日のルーマニア大統領の提案からわずか2週間後というタイミングで提出されており、政府と議会が連携して戦略的に対応していることを示しています。

※3 コンスタンツァ市は黒海沿岸最大の港湾都市であり、既存のインフラが整っていることから、同市への設置はルーマニアにとって経済的・地政学的にも大きな意味を持ちます。また、書簡には複数の政党の議員が名を連ねており、本件が党派を超えた国益に関わる重要案件として扱われていることがうかがえます。

 

黒海戦略の背景

今回の黒海戦略は、2007年に策定された「黒海シナジー ※4」を更新する形で打ち出されたものであり、黒海地域をヨーロッパ、南コーカサス、中央アジア、東地中海を結ぶ戦略的結節点として位置づけています。戦略では、安全保障、貿易、エネルギー、特に穀物を中心とした食料供給面での地域的重要性が強調されています。また、EU域内の接続性と国際貿易を促進するため、輸送・エネルギー・デジタルインフラへの重点的な投資の推進が謳われています。

※4  2007年に開始された「黒海シナジー」は、ブルガリアおよびルーマニアのEU加盟を契機に策定された地域協力枠組みであり、当初は経済およびエネルギー協力を重視していました。

しかし、2014年のロシアによるクリミア併合、および2022年以降のウクライナ侵攻を経て、黒海地域の地政学的状況は根本的に変化しました。その結果、2025年の新戦略では、安全保障と防衛が最優先事項として掲げられており、EUの黒海政策は「協力重視」から「安全保障重視」への大きな方針転換を迎えています。

 

黒海戦略の3本柱

黒海戦略は、以下の3つの柱から構成されています:

  1. 安全保障、安定性、回復力:インフラ保護、軍事機動性の強化を含む
  2. 成長と繁栄:エネルギー連結性、グリーン回廊の整備、ブルーエコノミー(海洋経済)への投資
  3. 環境保護、気候回復力、市民保護:黒海の汚染防止、生態系復元及びブカレスト条約へのEU参加 ※5

※5  1992年に採択された「ブカレスト条約」は、黒海の海洋環境保護を目的とした多国間協定で、現在は黒海沿岸の6か国(ブルガリア、ルーマニア、ジョージア、ロシア、トルコ、ウクライナ)が締約国です。EUの正式参加によって、EU環境法との統合や予算支援の活用が進み、より厳格な環境基準が導入されることが期待されています。特に現在の地政学的情勢を踏まえると、EUの参加は多国間協力の持続可能性の確保や、地域の安定においても重要な意味を持ちます。

今回の「黒海安全保障ハブ」構想と、それを支えるEU黒海戦略は、法的拘束力こそないものの、安全保障、経済発展、環境保護といった複数の観点から、激変する黒海地域におけるEUの戦略的関与と長期的なコミットメントを明確に示す重要な政策文書として位置付けられています。

記事概要へ戻る

 

資料閲覧 その他