欧州海上安全レポート
目次
1.EUが欧州海事安全庁の権限を改正
2.EU加盟国がGNSS妨害・偽装への対策を要請
3.EUが海上安全保障演習の成功を報告
4.欧州委員会が新たなEU海事産業戦略に着手
記事概要
1.欧州議会の運輸・観光委員会は、欧州海事安全庁(EMSA)の権限を強化・拡張する新たな規則案を承認しました。これにより、EMSAは海事安全や環境保護に加え、脱炭素化やデジタル化などの分野にも重点的に対応できるようになります。今後は、加盟国や欧州委員会の支援のもとで柔軟に任務を拡大できる仕組みが整えられます。
2.EU運輸理事会において、リトアニアが主導するGNSS(全球測位衛星システム)干渉への対処を求める行動要請が提起され、多くの加盟国が支持を表明しました。近年、バルト海地域を中心に干渉事例が増加しており、輸送の安全確保が喫緊の課題となっています。欧州委員会は輸送モードごとの行動計画の策定を進めています。
3.欧州対外行動庁は、イタリア沖で実施された海上安全保障演習「MARSEC EU 25」が成功裏に終了したと報告しました。本演習では、違法漁業の摘発やパイプラインへの脅威への対応が模擬され、複数のEU機関や加盟国、NATOが参加しました。現実の事例に基づく訓練を通じて、EUの海上安全体制の強化が図られています。
4.欧州委員会は、EU海事産業戦略の策定に向けてパブリックコメントの募集を開始しました。この戦略は、造船業や海事機器分野を中心に、グリーン・デジタル移行の推進や製造能力の強化を目指すものです。戦略的自律性と産業競争力の確保に向けた重要な取り組みとして、海事業界からも注目されています。
1.EUが欧州海事安全庁の権限を改正
6月24日、欧州議会の運輸・観光(TRAN)委員会は、新しいEMSA規則に関して立法機関間で合意に達した協定※1を承認しました。
EMSAの権限は2013年以来更新されていなかったため※2、新規則はEMSAの任務と権限を、海事分野における現在の規制枠組みおよび優先事項に適合させるうえで大きな意義を持ちます。
同文書には、
「本機関の主要な目標は、事故の最大限の削減を目指す統一的かつ効果的な高水準の海事安全、海事保安、船舶からの温室効果ガス排出削減および海事分野の持続可能性の確保、さらに船舶による汚染の防止・対応および石油・ガス設備による海洋汚染への対応である」
と記されています。
新規則により、EMSAは脱炭素化とデジタル化により重点を置くことが可能になり、グリーン・デジタル両面の移行における役割が強化されます。協定では、海事安全、環境持続可能性、脱炭素化、海事およびサイバーセキュリティ、海事監視と危機対応、さらにデジタル化と簡素化に関する機関の具体的な任務が示されています。
注目すべきは、新規則により「海事安全の進化する性質」を踏まえ、EMSAが新たな活動を担うことも可能になる点です※3。また、同規則では「環境保護や大気汚染に関する新たな分野」においてもEMSAの任務を拡大できることが明記されています。これにより、従来の権限の枠内では対応できなかった新たな課題に基づく追加任務を、同機関が引き受ける道が開かれます。
ただし、同規則によれば、これらの追加任務にはEMSA管理委員会の承認に加え、欧州委員会および加盟国の支持が必要となります。いかなる追加任務も、当該分野における加盟国の権限を尊重しなければなりません。
EMSAは、港湾国管制、旗国管制、海難事故調査、旅客船の安全、認定機関、海事機器など※4、関連するEU法制の実施において、引き続き欧州委員会および加盟国を支援します。また、FuelEU海事規則やEU排出量取引制度の海運分野への拡大の実施についても支援を行います。
EMSAの権限更新に関する提案は2023年6月に欧州委員会から提示され、長期間の議論を経て2025年5月に合意に至りました。この合意は今後、欧州議会本会議(9月予定)およびEU理事会による承認を経て、正式に発効する予定です。
※1 EUの立法プロセスでは、欧州委員会が法案を提案した後、欧州議会とEU理事会(加盟国政府代表)が審議・協議を行います。両機関が法案内容について合意に達した段階が「協定」であり、その後各機関での正式承認を経て法律として発効します。
※2 EMSAは2002年設立後、2013年に最後の大幅権限更新が行われました。その後12年間で海事分野は大きく変化しました。2015年パリ協定以降の脱炭素化要請、IoT・AI等のデジタル技術革新、サイバーセキュリティ脅威の増大、さらにEUの欧州グリーンディール(2019年~)による政策転換等により、従来の海難事故防止・海洋汚染対策中心の権限では対応が困難となったため、今回の更新に至りました。
※3 「海事安全の発展的性質」とは、自動運航船、新代替燃料、サイバー脅威等、海事分野で絶えず生じる技術革新や新たなリスクを指します。従来のEMSA権限は法律で具体的業務を列挙する方式でしたが、新規則では予見不可能な新課題に対しても、管理委員会・委員会・加盟国の三段階承認により法改正を経ずに迅速対応が可能となりました。これによりEMSAは固定的組織から適応型組織へと進化しています。
※4 EUでは単一市場形成のため、27加盟国が統一的な海事安全基準で船舶を管理する必要があります。港湾国管制(外国船の入港時検査)、旗国管制(自国籍船への監督)、海難事故調査、旅客船安全基準、船級協会等の認定機関監督、船舶用安全機器の型式承認等の各法制について、EMSAが技術支援・データ管理・監視評価を通じて加盟国間の統一的実施を支援しています。例えば、海運会社はEMSAが運営するプラットフォームであるTHETIS-MRVを通じてETSとFuelEUデータを報告しなければならず、これは船舶排出に関する信頼性のあるデータの公表を支援しています。EUにおける海事安全の進歩を監視するため、EMSAは3年ごとに委員会に報告書を提出します。
2.EU加盟国がGNSS妨害・偽装への対策を要請
6月5日、ブリュッセルにおいてEU運輸理事会が開催され、各加盟国の運輸大臣級の代表が出席しました。議論された主な課題の一つは、全球測位衛星システム(GNSS)への妨害や偽装への対処を求める行動要請でした。
この要請はリトアニアが主導し、チェコ、エストニア、フィンランド、イタリア、ラトビア、ルーマニア、スペインが支持しました。背景には、2022年以降、バルト海地域でGNSS干渉が増加し、複数の輸送モードに脅威をもたらしている実態があります。例えば、最近のデータでは、リトアニアは2024年10月に890件、2025年1月には1185件のGNSS干渉を報告しています。同様に、ラトビアも2024年10月に790件、2025年1月に1288件を報告しています。具体的な事例としては、2025年6月にリトアニアのクライペダ港付近で航空機と船舶がロシアの妨害によってGNSS信号を喪失しました(記事1および記事2参照)。
この要請は、バルト海沿岸国以外の加盟国からも支持を得ています。こうした傾向はEU各地でも見られるだけでなく、2025年3月に国際海事機関(IMO)、国際民間航空機関(ICAO)、国際電気通信連合(ITU)が署名した共同声明にも見られるように、グローバルな問題としても注目されています。声明では「有害な妨害からの無線衛星サービスの保護」が求められています。
この要請は、GNSS干渉という増大する脅威に対処するために、EU加盟国がEUレベルでの協調行動を促進したものであり※5、当初は航空分野に焦点を当てていたものの、後に海事分野にも対象が拡大されました。
理事会ではこの行動要請が多くの加盟国から歓迎され、GNSS干渉が緊急性の高い課題であることが強調されました。アポストロス・ツィツィコスタスEU運輸委員も出席し、この問題に関するEU行動計画の策定において、加盟国が主導したイニシアチブへの全面的な支持を表明しました。同氏は、計画には航空、海事、道路など各輸送モードに特化した行動を含める必要があり、委員会はすでに欧州航空安全庁やEUROCONTROL、加盟国、業界関係者と連携して具体的な計画策定に貢献していると述べました。
今回の行動要請は、現状の課題およびGNSS干渉の報告事例の増加に対する意識を高めるとともに、干渉への対処と制限措置の緊急性を強く訴えるものであり、この問題をEUの優先政策課題として位置づける意義を持っています。直接的な法的拘束力はありませんが、これまで技術的課題とされてきた問題が、政治的・安全保障上の課題として認識されつつあることを示し、EU全体としての包括的対応の基盤を築くものです。
※5 GNSS妨害・偽装は従来技術的課題として扱われてきましたが、2022年以降の急激な増加(特にバルト海地域での月1000件超の報告)により、個別対応では限界があることが明らかになりました。今回の行動要請により、この問題は技術課題から政治・安全保障課題へと格上げされ、EU全体での政治的対応が必要な重要課題として認識されつつあります。
3.EUが海上安全保障演習の成功を報告
欧州対外行動庁(EEAS)は、複数の加盟国の行政機関およびEU機関(欧州漁業管制庁(EFCA)、欧州海事安全庁(EMSA)、欧州国境沿岸警備庁(FRONTEX)を含む)が関与した年次海上安全保障演習「MARSEC EU 25」(第2回)の成功裏の実施について報告しました。
今回の演習の主なテーマは、違法漁業との闘いと重要インフラの保護であり、両テーマに関して実際の事例に基づいた模擬シナリオが展開されました。
違法・無報告・無規制(IUU)漁業に関しては、IUU漁業に従事している船舶の発見、艦隊司令部および関連する海軍作戦センターへの通報を含む訓練が実施されました。この警報情報は、EU加盟国の作戦センターやEFCAなどのEU機関とも共有されました。その後、イタリア沿岸警備隊の巡視船が当該漁船を拿捕・検査し、違法行為を確認。本件はさらに法執行機関へ引き渡されました。
重要インフラの保護に関する演習では、パイプライン付近で不審な行動を取る船舶の探知からシナリオが始まりました。調査のため船舶と航空機が派遣され、その結果、パイプライン上で爆発物が発見・無力化されました。
これらのシナリオは模擬であるものの、実際の事件や脅威に基づいています。たとえば、ニュースサイト「Malta Today」は最近、マルタ沖での違法漁業への対応に関するマルタおよびEU当局の取り組み(記事)を報じています。また、パイプラインインフラに対する脅威は特にバルト海地域で現実の問題であり、2023年のフィンランド・エストニア間の「バルトコネクター」パイプラインへの攻撃や、2022年の「ノルドストリーム2」パイプライン爆破事件などが発生しています。
演習は7月1日〜2日にかけて、イタリア海軍の指導のもと、イタリア・ラ・スペツィア沖で実施されました※6。スウェーデン沿岸警備隊およびEUROMAR FOR(フランス、イタリア、ポルトガル、スペインの海軍による合同部隊)も参加し、NATOはオブザーバーとして出席しました。欧州対外行動庁、欧州委員会、欧州防衛庁が演習の支援にあたりました。
これらの演習は、2023年10月に採択されたEU海上安全保障戦略の実施の一環として位置づけられています。同戦略では、Eurojustが最近報告したように、ロシアが支援しているとされるハッキンググループ「NoName057(16)」によるヨーロッパ全域へのサイバー攻撃など、ハイブリッド型脅威への対処が主要目標の一つとされています。その他の目標には、重要インフラへの妨害行為への対応、加盟国および機関間での情報共有の強化、違法漁業などの不法行為への対応能力の向上などが含まれます。
戦略においては、海軍演習を定期的に実施することが、これらの目標を達成するための重要な手段のひとつとされており、欧州のさまざまな海上安全保障関係機関間の協力を促進・強化し、進化する海上の安全保障上の脅威や、海事インフラへの攻撃に対する対応力の向上につながるとしています。
※6 MARSEC EU 25は違法漁業対策と重要インフラ保護に焦点を当てた年次海上安全保障演習で、EUROMAFORが組織し、複数のEU機関と各国海軍・沿岸警備隊が参加しました。演習の詳細については、欧州対外行動庁(EEAS)の公式記事で確認できます。これは前年2024年5月にスペインのカルタヘナ沖で実施されたMARSEC EU 24に続く第2回年次演習です。
4.欧州委員会が新たなEU海事産業戦略に着手
6月30日、欧州委員会は今後策定予定のEU海事産業戦略に関するパブリックコメントの募集を開始しました※7。関心を持つステークホルダーは、7月28日までに意見を提出することができます。委員会は、2026年第1四半期に公表予定の戦略草案の作成にあたり、これらのフィードバックを考慮する予定です。
現在策定中のEU海事産業戦略は、現欧州委員会の主要な政策イニシアチブの一つと位置づけられており、いわゆる「クリーン産業協定」内における、より広範な政策優先順位の再調整の一環とされています。前委員会の任期(2019~2024年)においては気候・環境政策に重点が置かれていましたが、現在の欧州委員会は、競争力および産業政策へと焦点を移しています。この戦略は、特に造船業と海事機器分野において、EU海事産業に対してこの政策シフトを適用することを目的としています。
パブリックコメント資料によると、EU海事産業戦略は「ヨーロッパの水上輸送産業・技術基盤およびその広範なバリューチェーン(海運、内陸水運、港湾を含む)を強化し、域内の製造能力とノウハウの向上を促進する」ことを目指しています。同戦略は、EUの戦略的自律性および安全保障を確保しつつ、水上輸送分野におけるグリーン化・デジタル化の移行を支援するものです。
さらに、グリーン・デジタル船舶や造船プロセスに関する研究・イノベーションの推進、グリーン・デジタル移行のための投資促進、域内能力の強化と公正な競争条件の整備を通じた国際的な公平な競争環境の確保、経済および安全保障上の目標を支える二重用途・先進船舶の開発における軍事的ノウハウの活用などが盛り込まれています。
この戦略は、EU港湾戦略や持続可能な輸送投資計画(STIP)など、欧州委員会による他の主要イニシアチブと連携し、ヨーロッパの水上輸送クラスターの競争力強化と脱炭素化の支援を図るものです。
EU海事産業戦略の必要性は、多くのステークホルダーから繰り返し提起されており、海事業界からも歓迎されています。同戦略の目的は、グローバルな海事プレイヤーとしてのヨーロッパの地位を強化し、第三国への依存を低減することにあります※8。戦略の具体的な効果については今後の推移を注視する必要がありますが、積極的な海事・造船政策の実施に向けた明確な意思が示されています。
※7 このパブリックコメントは、EUの透明性原則に基づく政策策定プロセスの一環で、重要政策の策定前に産業界、労働組合、学術機関、市民社会、加盟国政府から広くコメントを求める制度です。28日間という短期間での実施は、新委員会がクリーン産業協定の一環として早期に主要成果を出す意図を示しています。海事産業界から大きな注目を集めているのは、この戦略がEU予算配分、規制環境、補助金政策等に直接影響し、EU海事産業の将来方向性を決定する重要な政治プロセスであるためです。
※8 EUの海事産業は現在、造船業で韓国・中国に大きく後れを取り、造船用鋼材や船舶用部品の多くを中国から輸入するなど第三国への依存が深刻化しています。2024年時点で中国は世界の造船受注の約70%を占め、韓国が17%、日本が4%、EUは約11%にとどまっています(出典:Clarkson Research, Visual Capitalist)。この戦略は、グリーン船舶技術での世界リーダーシップ確立、設計から建造・運航まで一貫した競争力向上、戦略的素材の自給自足能力強化を目指しています。クリーン産業協定の一環として、脱炭素化と産業競争力の両立、中国の産業政策への対抗、戦略的自律性の実現という政治的・経済的意義を持っています。
(日本海難防止協会ロンドン事務所長 立石)